第二夜 ノラや

猫文学って言ったらみなさん何を一番に思い浮かべるのでしょう?わたしは、何となくだけど、内田百閒の「ノラや」を一番に思い浮かべてしまう。

内田百閒といえば、今で言う鉄オタ、錬金術師(借金上手ってこと)、「イヤダカライヤダ」の人、ドイツ語学者、ちょう頑固なグルメ、きれいでうんと恐い幻想文学を書く人...そして何と言っても、猫の人。

庭にいついた野良猫ノラがだんだん可愛くなって来た。百閒とノラの蜜月。なのに、ノラはある日ふと姿を消してしまう。それからの百閒の行動はまさに常軌を逸している。毎日泣き崩れているの、ノラや、ノラや、と言いながら。雨が降れば心配して泣き、ノラが好きだったおかずを見て泣き、ノラが好きだった風呂場を見ては泣き(そして風呂には入らない)、新聞に広告を入れこみ、あ、外国の人が読んだら分からないかな、と英語バージョンを作ったり、子ども用に分かりやすい文言のビラを作ったり...そのチラシの内容がまたものすごく詳細で、切羽詰まっているという迫力がものすごい。悲哀の迫力も。

「家の猫がどこかに迷ってまだ帰って来ませんが、その猫はシャム猫でも、ペルシャ猫でも、アンゴラ猫でもなく、極く普通のそこいらにどこにでもいる平凡な駄猫です、しかし帰って来なければ困るのでありまして、」の下りとか、本当に涙が出てしまう。そうだね、みなさんもきっと、そうでしょう、この子じゃないと困るのです。とにかく、滑稽なほど悲しいのだ。

この前の夏、旦那(Kさんと申します)の実家のしまちゃんという老嬢がふと姿を消した。実家は今住む町から新幹線等々乗り継いで、一時間半くらいでつく海辺の町だ。Kさんはしょっちゅう帰ってはしまちゃんの名前を呼んで、しまちゃんのごはん茶碗を鳴らしながら暗くなっても探しまわった。お母さんは側溝をもぐって探しまわったためあちこちにあざができている。
みんなが青い顔で一丸となってしまちゃんを探す様子はものすごい迫力で、ああ、シマや、だな、と思った。百閒のこと、常軌を逸している、って思っていたけど、百閒に限らず猫を探す人って常軌を逸してしまうのだな。

結局しまちゃんは普通の顔して帰って来てくれて、あざも、蚊にさされた跡も笑い話になったけど、あの時のみんなの滑稽なほどの悲哀と迫力は忘れられない。一生覚えてる気がする。猫がいなくなるって、それくらい一大事なのです。

ノラや』 内田百閒著 中央公論新社